off-box.net — 「知ると100倍楽しいバルカン戦争」第2回【Balkan WarS宣伝記事】

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「知ると100倍楽しいバルカン戦争」第2回【Balkan WarS宣伝記事】

「知ると100倍楽しいバルカン戦争」第2回は「セルビアとオーストリア」について扱います。前回「もともと悪化していた」と書いた両国の関係ですが、なぜそのような状態にあったのでしょうか。また、ボスニア併合後はどうなっていったのでしょうか。

 セルビアという国家はオスマン帝国がヨーロッパにやってくる以前もありましたが、バルカン戦争当時のセルビアという国家の直接の原型となるものはオスマン帝国の下で自治権を得て形作られたセルビア公国です。1804年に起こったカラジョルジェ・ペトロヴィッチによる蜂起が失敗した後、1815年にミロシュ・オブレノヴィッチによる蜂起があり、1817年には彼がセルビア公となって公国ができました。1830年にはこの公国が完全な自治を獲得することになります。そして、前回述べたように、露土戦争後のベルリン条約によってセルビアは独立し、1882年には王国となります

 さて、少し時計の針を戻しますが、セルビアの国内では公位をめぐる争いがありました。これは政治体制に関する争いでもあったのですが、最初に公位についたオブレノヴィッチ家の対抗馬とされていたのが冒頭に登場したカラジョルジェ・ペトロヴィッチの家系、カラジョルジェヴィチ家でした。実際、1842年にはアレクサンダル・カラジョルジェヴィチがセルビア公位に就いています。しかし、1858年に再びオブレノヴィッチ家に公位が移ります。こうして、オブレノヴィッチ家の下でセルビアは王国となったのです。

 この時、セルビアはロシアよりオーストリアに接近するという政策をとっていました。ロシアはブルガリアに対する支援を強めており、これに対抗するためです。しかし、これには問題がありました。セルビアは南スラブ人の盟主となることを目指していました。これにはクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナといったオーストリアの支配下にある地域の人々も含まれていたため、オーストリアと接近する政策とは相容れないものだったのです。不満はクーデターという形で発露し、当時の王アレクサンダル1世が殺害されてカラジョルジェヴィチ家のペータル1世が即位します。

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すると彼はオーストリアとの対決姿勢を強めていきます。表面的にはこの方針転換が関係悪化の原因といえるでしょう。一例として、オーストリアとの間に起こった関税戦争である豚戦争が挙げられるでしょう。

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ボスニア・ヘルツェゴビナ併合に際しては両国が軍を動員し、戦争が起こりかねない状況でした。そして、オーストリアに対して敵対的なのはその政府だけではなく、1910年にはセルビア人青年によるボスニア知事暗殺未遂事件が起こるなどテロ組織による活動が行われました。

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次回は「バルカン諸国が戦争に踏み切った要因」を扱います。