「知ると100倍楽しいバルカン戦争」第1回【Balkan WarS宣伝記事】
本稿は「知ると100倍楽しいバルカン戦争」と題しまして、拙作“Balkan WarS”のゲーム中に登場する史実イベントを紹介しながら、バルカン戦争の前史を知ろうという記事でございます。全5回にわたり、ご説明していきたいと思います。専門家ではありませんので、正確性を欠く部分もあるかとは思いますが、できる限り概説書などに沿ったものにしていきたいと思います。第1回は「青年トルコ人革命」を取り上げたいと思います。
オスマン帝国という国はその昔中東から南東欧にかけて覇を唱えたわけでありますが、一般には第二次ウィーン包囲が失敗し、1699年にオーストリアとの間で結ばれたカルロヴィッツ条約でハンガリーを失ってからというもの、衰退したとみなされています。ロシアとはエカチェリーナ2世の頃には2度にわたる戦争があり、クリミア半島を失います。このような状況の中でオスマン帝国は改革に乗り出し、セリム3世の諸改革やマフムト2世によるイェニチェリの廃止などが行われましたが、帝国の崩壊は止まりませんでした。ギリシャやエジプトが独立し、帝国の支配を離れていくこととなります。この様な状況でも近代化の努力は続いており、1839年にはアブデュル=メジド1世によってギュルハネ勅令が出されタンジマート(恩恵改革)が進みます。クリミア戦争では列強の支援を受けながらロシアを破り、領土を守りました。改革の成果の最も重要なものは1876年に制定されたミドハト憲法でしょう。
これによりオスマン帝国は近代的な立憲君主制国家に生まれ変わった…はずでした。
しかし、1877年に露土戦争が起こります。この戦争は様々な点においてバルカン戦争の遠因となったと言えるでしょう。この戦争の講和条約、サン=ステファノ条約によってセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立が認められ、ブルガリアは広大な領土を支配下に置く自治公国となることが決まりました。しかし、これにオーストリアやイギリスが待ったをかけます。ベルリン会議で修正がかかった結果、3か国の独立は認められたものの、ブルガリアは大幅に領土を縮小され、またオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を得ることになります。民族自決に沿わない結果(そもそも、民族自決に沿う結果など存在しえないでしょうが、少なくともセルビア人やブルガリア人にとっては明確にこう言えたでしょう。) が禍根を残すことになったわけです。そして、この戦争のさなかにアブデュル=ハミト2世がミドハト憲法を停止したことも、オスマン帝国を専制政治に立ち戻らせたと言う点で、バルカン戦争へとつながっていくのです。
これでは話が飛びすぎですので、最初の話題に戻しましょう。「青年トルコ人革命」がこの記事の主題でしたね。

1908年統一と進歩委員会が中心となってメンバーの軍人たちが蜂起し、ミドハト憲法の復活を認めさせ、翌年にはアブデュル=ハミト2世を退位させます。これが青年トルコ人革命です。これによって立憲君主制が復活したわけですが、革命というものは当然ながら混乱を伴うわけです。この混乱のなかで、ブルガリアがオーストリアの後ろ盾を得て独立します。さらに、オーストリアは統治権を得ていたボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言します。このボスニア・ヘルツェゴビナ併合がセルビアのナショナリズムを刺激し、もともと悪化していたセルビアとオーストリアの関係をさらに冷え込ませ、戦争寸前となるのです。青年トルコ人革命はバルカンのナショナリズムをさらに加速させる一因となり、さらに革命の混乱が、バルカン諸国に付け入る隙を作ったという点で、バルカン戦争につながっていくのです。


(「ボスニア併合」イベントの人物はオーストリアの外相レーエンタール)
さて、次回は「セルビアとオーストリア」を扱います。よろしくお願いします。




