off-box.net — 「知ると100倍楽しいバルカン戦争」第3回【Balkan WarS宣伝記事】

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「知ると100倍楽しいバルカン戦争」第3回【Balkan WarS宣伝記事】

「知ると100倍楽しいバルカン戦争」第3回は「バルカン諸国が戦争に踏み切った要因」を扱います。

露土戦争の後、バルカン半島で戦争がなかったのかといえばそんなことはありません。1885年にはセルビアが東ルメリを併合したブルガリアに対し戦争を起こしていましたし、1897年にはギリシャが当時オスマン帝国領だったクレタ島での蜂起を契機にオスマン帝国に対して戦争を起こしています。(結果として、前者はブルガリアが、後者はオスマン帝国が勝利しています。) このようにバルカン諸国は決して仲がいいとは言える状態ではなかったし、オスマン帝国に対抗できるかは怪しい状態だったのです。では、なぜバルカン同盟が結成され、開戦するに至ったのでしょうか。

 まず、バルカン同盟が結ばれる原因は、第2回で述べたオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合にあります。この行動はバルカン諸国の「自民族を1つの国家にまとめる」という目標とは対立するものでした。そのため、小国同士の連帯によって大国に対抗する必要性が強くなったのです。

では、オスマン帝国との戦争を決断させたのはどのような状況によるものなのでしょうか。一つは、第1回でも述べましたように、青年トルコ人革命によるオスマン帝国内部の混乱です。革命がもたらした混乱は、特にバルカンでは大きく響くことになりました。青年トルコ人は民族主義的な結社を禁止したため、逆に領内の民族運動を刺激しました。特にアルバニアの反乱は何度かにわたるもので、特に1912年に起こった反乱はエーゲ海に面するテッサロニキにまで反乱軍が迫るものでした。

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 二つに、このオスマン帝国が見せた隙が決定的なものとなる出来事があったことです。それは1911年に始まったイタリアとの戦争です。

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この伊土戦争はイタリアが北アフリカのオスマン帝国領の植民地化を狙ったものでした。もちろん、陸上戦は主にその北アフリカ、現在のリビアで展開されましたが、海上でも戦闘がありました。首都イスタンブールが砲撃に遭うなどイタリア海軍はオスマン海軍を圧倒していました。つまりこの時、東地中海におけて、オスマン帝国は制海権を失っていたことになります。それは、バルカン半島のオスマン領とオスマン本土の連絡が困難になっていたということでもあるのです。この絶好の機会を逃すまいと、1912年10月8日にバルカン諸国はオスマン帝国へ宣戦を布告することになるのでした。(なお、伊土戦争は10月18日に終結します。)

次回は「ギリシャ」を扱います。