off-box.net — 「知ると100倍楽しいバルカン戦争」EX【Balkan WarS宣伝記事】

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「知ると100倍楽しいバルカン戦争」EX【Balkan WarS宣伝記事】

今回は「バルカン戦争後のバルカン」について扱いたいと思います。

バルカン戦争の後も各国はそれ以前と同様の領土要求を持っていました。そしてセルビアとオーストリアの対立はサラエヴォ事件から第一次世界大戦を引き起こします。

この第一次世界大戦は第三次バルカン戦争としての側面もあります。ギリシャ・セルビア・ルーマニアは連合国側で参戦し、ブルガリアは同盟国側であったので、バルカン諸国に関しては第二次バルカン戦争と同じ構図が見えてきます。ただ、オスマンは同盟国側であるという点で違いがあります。

戦後の様子を見ると、民族自決という要素が尊重される中でセルビアがオーストリア領であったクロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴビナを得て、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のちに改称してユーゴスラビア王国)になったことが目を引きます。セルビアはかねてからの目標であった南スラブ人の合同をほぼ達成したのです。しかし、セルビア人中心の政府運営は反発も招くことになります。

ブルガリアはヌイイ条約でエーゲ海への出口を失うことになります。第二次バルカン戦争では敗戦したと言え、ほとんどオスマンから得た領土を失ったのみでしたが、これによりそれ以前に持っていた領土も失うことになりました。

ギリシャはそのブルガリアから西トラキアを得たうえ、さらにオスマンからはセーヴル条約で小アジアの一部であるイズミル地方を得ることになりました。しかし彼らの目指す「メガリ・イデア」を完成させようとオスマン、そしてその後身となったトルコ共和国と戦い、敗北します。結局オスマンから得るはずだった領土は得られずじまいとなります。

オスマンは戦後処理の中でスルタンが廃され、トルコ共和国の成立へと至ります。結果としてヨーロッパ方面では領土をほぼ保ちました。しかし、ローザンヌ条約で行われたギリシャとトルコの住民交換(トルコ領内のギリシャ人をギリシャに送り、その逆もまた行った)は様々な問題を起こすことになります。

戦間期、バルカン諸国は独裁へと移行していきました。1929年にはユーゴスラビアが、1935年にはブルガリアが、1938年にはルーマニアが国王親政になります。1936年にはギリシャでメタクサス将軍が独裁権を握りました。アルバニアでは1925年に大統領となったアフメト=ゾグが1928年には王位について専制的な統治を行いました。これらは各国の政治的な混乱を抑えるためのものでした。ファシズム自体はこの動きと対立することもあり、共産党とともに押さえつけられました。例えば、ルーマニアでは大天使ミハイル軍団の政治組織として鉄衛団が結成され、勢力を伸ばしましたが非合法化されています。

外交関係の面ではオーストリアやハンガリーの牽制としてユーゴスラヴィア、ルーマニア、そして(バルカンには位置しませんが)チェコスロバキアによりいわゆる小協商が結ばれ一定の成果をあげました。また1934年にはユーゴスラヴィア、ルーマニア、ギリシャ、トルコによりバルカン協商が結ばれ利害を乗り越えて、ドイツやイタリアの経済進出に対抗する動きが見られました。しかし、英仏の宥和政策もあり対抗することが難しいと判断されると今度は独伊に接近していくことになります。また、そもそもアルバニアはイタリアに保護国化されたのち、1939年には併合されています。

そんな中で第二次世界大戦がはじまります。バルカン諸国は最初中立の態度をとっていましたが、徐々にそれは変化していきました。ルーマニアはソ連にベッサラビアの割譲を迫られ、屈服するとハンガリーやブルガリアからも領土割譲を要求され、多くの領土を失います。このため、領土保全の目的で枢軸国側につく選択をしました。また、ドイツからの圧力を強く受けたブルガリアも枢軸国側についています。

ギリシャはイタリアの攻撃を受けて連合国側につくこととなります。また、ユーゴスラヴィアはクーデターの結果連合国側につくことになりこれらの国は占領されることになります。

クロアチアではウスタシャが独伊の協力でクロアチア独立国を建ててセルビア人を虐殺し、セルビア人の抵抗組織チェトニックはクロアチア人を虐殺するなど戦争を利用した民族浄化が行われました。

大戦が終わるとギリシャ、トルコを除いたバルカン諸国は共産化することとなります。興味深いのは共産化した諸国が全く異なった姿勢をとっていったことです。ユーゴスラヴィアはチトーの元、ソ連と対立して早々に東側陣営からは追い出されるも社会主義自体は保ちつづけました。ルーマニアはスターリン批判の動きの中でソ連とのつながりが深かった有力者を追放し、その後はソ連が主導する枠組みにとどまりつつも独自外交を推し進め、西側とも交流します。アルバニアはホッジャのもと、スターリン批判を拒絶し、ソ連が主導する枠組みから外れて中国へと接近するも、毛沢東の死後、中国が改革に着手すると関係が悪化し鎖国状態に入ります。これらの国に対し、ブルガリアはソ連に従順であり続けました。

この後、社会主義体制は崩壊し、民主化が進むことになりますが、同時にそれは民族主義を再び強くすることになりました。最も顕著だったのはユーゴスラヴィアで、内戦が終わり、各共和国が独立した後も民族間の対立が続いた。コソヴォはその例でアルバニア系の多い地域ですがセルビアの支配下にありました。2008年に独立を宣言しましたがセルビアは認めていません。最近、セルビアが「アルバニアがコソヴォを併合しようとするなら、新たなバルカン戦争が起こるだろう」と警告したというニュースが出ましたがこのような対立がその陰にはあるのです。

バルカンの人々はオスマン帝国の下で自由を求めていました。そのために単一民族国民国家の樹立に向かっていったわけですが様々な民族の混在するバルカン半島ではそれが対立の火種となり続けています。バルカン戦争は、その端緒であったといえるでしょう。